あるべき言葉のかけ方とは

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかでの言葉ですが、「言葉は刃ぞ。心して使え。」という台詞が有り、改めて考えさせられました。

 今回のお題は、医療従事者の言動です。

 

「そんなに食べるからですよ。」「運動不足ですね。」「太りすぎです。」等々、医療現場では心ないともいえる言葉が聞かれることがあります。確かに事実としてそういったことがあるにしてもやはり「ものはいいよう」ではないかと。

 この事に関しては自分も昔のことを思い出すとイヤな汗がダラダラでる想いですが、なぜこのような言動に至るかということを考えて二つのことに思い至りました。

 ひとつは医療従事者が教育される「患者さんの利益である健康長寿を最大のものにする」という職業理念です。至極当然といえばそれまでですが、ここに書いた理念には実は大事なことが表現されていません。

 それは患者さんの『「個別の」利益とはなにか』です。医療者としてはまず健康長寿を優先させるべきなのでしょうが、そのために食事を我慢し続けるのは「その人にとっての最大の利益」にほんとうになるのでしょうか?

 人それぞれ個別の利益、日々の楽しみ、といったことに気がつかなければ、エビデンスに基づいた厳格な療養管理がもっとも説得力をもつようになります。ある考えが力を強く持てば持つほど、ここから外れるものを許しがたく感じるというのが人間の心なのではないでしょうか。

 ふたつめはパターナリズムです。私が医師になった頃にはすでにインフォームドコンセント、説明と同意、といった概念が医療現場に導入されていました。しかしそれ以前は、万能の父性たる医師がすべてをとりはからう、というパターナリズムが医療現場に浸透していました。

 現在パターナリズムは医療現場において過去の概念になりつつあるのだと思います。しかし人の心のなかはそうでもないのかもしれません。扱う事柄の専門性が高くなればなるほど、しらずこのパターナリズム的思考に陥るのかもしれません。万能の父性が至らない子らを注意し導く、という。

 これほど繰り返しお話ししているのになぜ間食をやめてくれないのだろう→間食を繰り返すのは病気についての理解がないからだ→まったくもってだらしない。

 実に余計なお世話です。書き起こすのもイヤな刃です。

 今回は医療者としての反省と言い訳みたいなもので、患者さんの療養にはまったくもって役に立ちません。

 が、過去にうけた傷があるならば、それは誤った刃によるもので、傷を受けたあなたのせいでも何でもないのです、ということが伝えわれば幸いです。